還暦 ~精神年齢40歳~

年齢同一障害者の映画・音楽・雑記など

父ちゃん、もっと好き勝手に生きて良かったのに

おはようございます。

 

大正2年(1913)生まれの祖母は裕福な農家に育ちました。しかし幼い時に負った火傷で右手の指が曲がらず、顔半分にはその痕(あと)が残りました。今はジェンダーに触れるのは避けるべきとする傾向がありますが、何せ大正時代の山村のことです。女性として祖母の思いは如何ほどだったでしょう。

 

 

祖母の嫁ぎ先は、先妻の子供のいる家の後妻でした。自分の生まれを誇りに思っていた祖母の思いは複雑だったと思います。その環境で母は生まれ育ちました。母には先妻の子供(義理の姉)という巨大な存在がありました。祖母と母は共に人に言えぬ苦労があったと思います。

 

 

私が生まれた時の家族は祖母、母親、母親の弟、そして私でした。戦後の農地解放の影響で新しく家を建て、いわゆる宗家に対する「分家」を創ったのです。貧しい家でした。母親の弟(私の叔父)は私が幼いころに亡くなりました。叔父の記憶はほとんどありません。叔父が亡くなってから半分家を出ていた父が戻ってきました。私にとっては新しく家に来た他人でした。

 

 

 

父は婿養子でした。祖母とはそりが合わず反目しあっていました。半分家を出ていて戻った父は母と不仲でした。私は母と祖母から父の悪口、悪態、蔑みを聞きながら育ちました。私は母とそして祖母の言い分を100パーセント受け入れ、父を嫌いました。父も私を嫌いました。

 

祖母と母は共に癇癪持ちでした。父の私への接し方は自然ではありませんでした。

私は思うのです。父と母は共に両親からまともに愛されたことが無いのではないか、と。

 

 

私の生まれ育った家にはまともな大人がいませんでした。主に貧困から発生する問題の原因を、家族の中の誰かのせいであると考えていました

 

貧困の原因は何なのか、現状を続けていてそれは解決できるのか、何か新しい生業を模索できないか、このままこの土地に縛られていて良いのか、僅かばかりの先祖代々の土地はそんなにしてまで守らなければならないのか、そんな話し合いをしている大人を家の中で1回も見たことがありません。聞こえるのはお互いのざんぞばかりでした。

 

 

私が高校を卒業して実家を離れるまでのべ5年間くらいを、冬の間父は何もせず寝てすごしました。寝ていない冬は炭焼きか出稼ぎをしました。戦前の生き方です。江戸時代かも知れません。

 

祖母、父親、母親に決定的に足りなかったのは外部の情報です。世の中は今どのように動いているのかに、まったく頭が回らな方のです。

 

絶対的に不足していたのは学問教育勉強です。肉親に対する上から目線になりますが、無知蒙昧は何としても打破しなければならないのです。

 

また、独立自尊の気概を持てなかったのも私の肉親の特徴です。

 

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私が父親だったらもっと好き勝手に生きたと思います。祖母の感情など跳ねのけて大げんかしていたと思います。あるいは一度婿養子で入って、そして出た家になど二度と戻らなかった思います。その場合私の人生も少し変わっていたかもしれません。悪い方向に変わったことも当然考えられます。

 

父は大工仕事が得意でした。台所や居間などを自分で作ってしまうのです。今で言うDIYです。

父にはもっともっと好き勝手に生きて欲しかったと思います。

 

私が父の立場でどうしてもその土地を離れられなかったなら、私は実家の庭に池を造り沢から水を引き魚を飼いそれを食べ、鶏を放し飼いにしその卵と肉を食べ、山羊や犬などの動物を飼い、庭にはスモモを植えその実を食べ、梅を植え梅酒を作り、居間には囲炉裏か最低でも薪ストーブを設置し、夏には近くの川で魚を捕り、縁側で読書をし、オフロードバイクを乗り回し、大音響でロックを聴いたと思います。

そしてそのための金をどうやって稼ぐかを必死に考えたと思います。

 

ただお嫁さんは難しく一生独身だったかも知れません。